義経の病が仮病
10月、義経の病が仮病であり、すでに行家と同心していると判断した頼朝は義経討伐を決め、家人土佐坊昌俊を京へ送った。
10月17日、土佐坊ら六十余騎が京の義経邸を襲ったが、自ら門戸を打って出て応戦する義経に行家が加わり、合戦は襲撃側の敗北に終わった。
義経は、捕らえた昌俊からこの襲撃が頼朝の命であることを聞き出すと、これを梟首し行家と共に京で頼朝打倒の旗を挙げた。
彼らは後白河法皇に再び奏上して頼朝追討の院宣を得たが、頼朝が父、義朝供養の法要を24日営み、家臣を集めたこともあり賛同する勢力は少なかった。
京都周辺の武士達も義経らに与せず、逆に敵対する者も出てきた。
さらに後、法皇が今度は義経追討の院宣を出したことから一層窮地に陥った。
29日に頼朝が軍を率いて義経追討に向かうと、義経は西国で体制を立て直すため九州行きを図った。
11月1日に頼朝が駿河国黄瀬川に達すると、11月3日義経らは西国九州の緒方氏を頼り、300騎を率いて京を落ちた。途中、摂津源氏の多田行綱らの襲撃を受け、これを撃退している。
10月17日、土佐坊ら六十余騎が京の義経邸を襲ったが、自ら門戸を打って出て応戦する義経に行家が加わり、合戦は襲撃側の敗北に終わった。
義経は、捕らえた昌俊からこの襲撃が頼朝の命であることを聞き出すと、これを梟首し行家と共に京で頼朝打倒の旗を挙げた。
彼らは後白河法皇に再び奏上して頼朝追討の院宣を得たが、頼朝が父、義朝供養の法要を24日営み、家臣を集めたこともあり賛同する勢力は少なかった。
京都周辺の武士達も義経らに与せず、逆に敵対する者も出てきた。
さらに後、法皇が今度は義経追討の院宣を出したことから一層窮地に陥った。
29日に頼朝が軍を率いて義経追討に向かうと、義経は西国で体制を立て直すため九州行きを図った。
11月1日に頼朝が駿河国黄瀬川に達すると、11月3日義経らは西国九州の緒方氏を頼り、300騎を率いて京を落ちた。途中、摂津源氏の多田行綱らの襲撃を受け、これを撃退している。
update:2010年03月07日
