水戸藩主は御三家の中でも。歴史

唯一江戸常勤を定められ、将軍を補佐する役目を受け持っていた。

そのため、水戸藩主は常時二重生活を強いられたうえ、格式を優先して実態の伴わない石直しを行ったため、内高が実高を恒常的に下回っていた。

幕府に対する軍役は、表高を基礎に計算され、何事も35万石の格式を持って行う必要性があったため、財政難に喘ぐこととなった。

頼房は事情により次男光圀に水戸藩を譲ったため、長男松平頼重は讃岐高松藩12万石を与えられた。

光圀は学問を好み、大日本史の編纂を行い、水戸藩に尊王の気風を植え付けた。

水戸藩で生まれた水戸学は幕末の尊皇攘夷運動に強い影響を与えた。

九代藩主斉昭は藩政の改革と幕政への参加を志したが、強い尊王攘夷傾向のため幕府に疎まれ隠居を余儀なくされた。

また斉昭は、財政難の中で、新規召し抱えをおこなったため、藩財政は窮乏を極めた。

なお15代将軍徳川慶喜は斉昭の子であるが、御三卿の一つである一橋家を継いでから将軍になったものである。

幕末には藩内の保守派と改革派の抗争から統制を失い、藩士による桜田門外の変、天狗党の乱を招いた。
update:2010年02月19日